Special
装画:井田幸昌
試し読み
第一章 女と馬
国道に、馬がいた。
錆びついたブレーキを力任せに掛け、赤いスクーターを止める。熱されて溶け出しそうなアスファルトの上でタイヤが擦れ、ゴムの焦げた匂いが鼻を突く。
色褪せたフラッグがたなびく中古車販売店と、潰れて看板が外されたパチンコ屋に挟まれた道の真ん中に、黒く艶やかに光る馬体が在った。
先ほどまで道路を行き交っていた軽自動車や大型トラック、路線バスやオートバイが、立ち往生しクラクションを鳴らす。ふざけんな、どけコラ、次々と罵声が飛ぶが、それらはまさに馬耳に吹きつける風のようで、私の背丈の倍ほどもある馬は道の真ん中で悠然と首を動かしている。
つんのめったヘルメットの鍔を上げると、馬と目が合った。漆黒の瞳が、じっと私を見つめている。どこか懐かしく、物悲しい黒。なぜだか、ため息が漏れた。額から汗がつう、と日に焼けた首筋を流れて着古したシャツの襟を濡らした。国道に立つ馬は、私から一切目をそらさない。正気かどうかを確認しようと、口角を上げた。大丈夫、ちゃんと笑えている。
馬が二歩、三歩とこちらに歩み寄ってくる。拍動が速くなり、激しく鼓膜を打つ。硬い蹄ひづめがアスファルトを打ち付ける音がそれに重なった。枯草と乳が混じり合ったような獣の匂いが、私の鼻に届く。
刹那、黒い馬が天を仰ぎ高らかに嗎いなないた。
幻ではない、と告げるかのように。
すると、揃いのナイロンジャケットを着た男たちがやってきて四人で馬を取り囲んだ。荒い鼻息を吐きながら、馬は前脚を高く上げる。右へ左へ。筋肉質で端正な四本脚が動く様は、洗練されたダンスのようだった。馬はしばらく暴れていたが、手綱がかけられると立ちどころにおとなしくなった。
ナイロンジャケットの男たちは、動き出した車に頭を下げながら、少し先の信号に停められた馬運車へと馬を引いていく。先ほどまでの様子と打って変わって、まったく抵抗することなくタラップを登った馬が観音開きの扉から荷台に乗ると、馬運車は鈍重に走り出した。消費者金融の無人契約機と、水色の看板のコンビニエンスストアに囲まれた交差点をゆっくりと左に曲がっていく。
遠ざかっていく車体に“麦倉乗馬倶楽部”と書かれているのが見えた。色褪せたその文字から私が目を離せないでいると、幌と荷台のすきまから、あの馬が顔を覗かせた。吸い込まれるような黒い瞳が、再び私に向く。
見つけた。
私が思うより少し先に、馬からそう語りかけられた気がした。