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私の馬

装画:井田幸昌

著者からのことば

このたび三年ぶりの小説『私の馬』を上梓しました。
物語が生まれたきっかけは、四年半前に起きた奇妙な事件でした。

とある女性事務員が十億円にも及ぶ金を着服し、業務上横領の罪で逮捕された。彼女は職場では影の薄い存在で、ギャンブルもやらず、男にのめり込むこともせず、粗末なアパートに住んで質素に暮らしていた。いったい彼女は、何にお金を使ったのか?
調べを進めていくうちに、彼女が横領したお金を自分が乗る“馬”につぎ込んでいたことが発覚する。彼女はサラブレッドを自馬として買い、エルメスの馬具を買い揃え、馬が暮らす厩舎を建てていた。

その夜、知人たちと飲みながらこの事件の話題になった。
「馬のために横領するなんて」「ホスト狂いみたいなもん?」「でも動物相手に……」
冷笑を聞きながら手元のスマホでSNSを見ると、彼女をあざ笑うコメントが連なっていた。

スマートフォンが登場し、私たちはいま人類史上最も言葉を使っている。けれどもそのほとんどが、恨みや怒り、嘘、嫉妬、誹謗中傷のそれだ。「わかりあう」ために発明された言葉をあふれさせながら、私たちは有史以来もっとも「わかりあえない」時代を生きている。
交わされる言葉は無限に増えていくのに、コミュニケーションの実感は薄れている。メッセージを送った数分後には、それがどんなものだったかを思い出すことができない。

その時、ふと思った。彼女は言葉のない世界で生きたかったのではないか、と。
コロナが蔓延したあたりから、周りの友人たちが次々と、猫や犬と暮らし始めた。
「これで完全無欠になった」と、ひとり暮らしに猫を迎えた親友は、満たされた笑顔でそう言った。
そこに言葉はないけれど、人間は動物と「わかりあっている」と思う。誰よりも「心が通っている」と感じる(僕も例外ではない)。

彼女が馬に見ていたものは何なのか。どんなコミュニケーションがそこにあったのか。
人間と動物とお金の物語。そこに、これから幸福に生きていくためのヒントがある気がした。
憎悪の言葉があふれている世界で、僕たちはどうやって言葉の手綱を引いて、誰かと繋がっていけばいいのか。馬との「言葉のない世界」にのめり込んでいく女性を、「言葉を信じて」描いていった。
思わずスマホを放り出したくなるような、かなしくもおかしい物語が、一気に走りだした。

三年にわたり、百頭以上の馬に会い、膨大な取材を経て書き上げた小説です。
皆様のご感想を聞かせていただけたら、これ以上の喜びはありません。

川村元気

試し読み

第一章 女と馬

 国道に、馬がいた。
 錆びついたブレーキを力任せに掛け、赤いスクーターを止める。熱されて溶け出しそうなアスファルトの上でタイヤが擦れ、ゴムの焦げた匂いが鼻を突く。
 色褪せたフラッグがたなびく中古車販売店と、潰れて看板が外されたパチンコ屋に挟まれた道の真ん中に、黒く艶やかに光る馬体が在った。
 先ほどまで道路を行き交っていた軽自動車や大型トラック、路線バスやオートバイが、立ち往生しクラクションを鳴らす。ふざけんな、どけコラ、次々と罵声が飛ぶが、それらはまさに馬耳に吹きつける風のようで、私の背丈の倍ほどもある馬は道の真ん中で悠然と首を動かしている。
 つんのめったヘルメットの鍔を上げると、馬と目が合った。漆黒の瞳が、じっと私を見つめている。どこか懐かしく、物悲しい黒。なぜだか、ため息が漏れた。額から汗がつう、と日に焼けた首筋を流れて着古したシャツの襟を濡らした。国道に立つ馬は、私から一切目をそらさない。正気かどうかを確認しようと、口角を上げた。大丈夫、ちゃんと笑えている。
 馬が二歩、三歩とこちらに歩み寄ってくる。拍動が速くなり、激しく鼓膜を打つ。硬い蹄ひづめがアスファルトを打ち付ける音がそれに重なった。枯草と乳が混じり合ったような獣の匂いが、私の鼻に届く。
 刹那、黒い馬が天を仰ぎ高らかに嗎いなないた。
 幻ではない、と告げるかのように。
 すると、揃いのナイロンジャケットを着た男たちがやってきて四人で馬を取り囲んだ。荒い鼻息を吐きながら、馬は前脚を高く上げる。右へ左へ。筋肉質で端正な四本脚が動く様は、洗練されたダンスのようだった。馬はしばらく暴れていたが、手綱がかけられると立ちどころにおとなしくなった。
 ナイロンジャケットの男たちは、動き出した車に頭を下げながら、少し先の信号に停められた馬運車へと馬を引いていく。先ほどまでの様子と打って変わって、まったく抵抗することなくタラップを登った馬が観音開きの扉から荷台に乗ると、馬運車は鈍重に走り出した。消費者金融の無人契約機と、水色の看板のコンビニエンスストアに囲まれた交差点をゆっくりと左に曲がっていく。
 遠ざかっていく車体に“麦倉乗馬倶楽部”と書かれているのが見えた。色褪せたその文字から私が目を離せないでいると、幌と荷台のすきまから、あの馬が顔を覗かせた。吸い込まれるような黒い瞳が、再び私に向く。
 見つけた。
 私が思うより少し先に、馬からそう語りかけられた気がした。

続きはメンバーシップにて

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