Special

私の馬

装画:井田幸昌

著者からのことば

小説をなかなか読んでもらえない、という嘆きの声をよく聞くようになった。
「これから次の小説を書こうとしてるのに」と愚痴ってばかりで書き始めない私に、友人が言った。
「でも、俺らはいま有史以来もっとも言葉を読んでるし使ってる」
手にしたスマホを振りながら彼は続けた。
「コレの中は言葉だらけ。まあほとんど恨みや怒り、嘘、嫉妬、誹謗中傷だけど」
苦笑しながら彼はスマホに目を戻し、画面上で素早く指を滑らせて誰かにメッセージを送った。
「わかりあう」ために発明された言葉を溢れさせながら、私たちは有史以来もっとも「わかりあえない」時代を生きている。交わされる言葉は無限に増えていくのに、コミュニケーションの実感は薄れている。メッセージを送った数分後には、それがどんなものだったかを思い出すことができない。
他方で、疫病が蔓延したあたりから人間と濃厚なコミュニケーションを獲得していったものたちがいる。それは、猫や犬などの動物たちだ。
そこに言葉はないけれど、人間は動物と「わかりあっている」と思う。誰よりも「心が通っている」と感じる(私も例外ではない)。 
本作は、五年前に起きた、とある女性の十億円にも及ぶ横領事件から着想を得た物語だ。彼女は、職場の誰とも交流せず、ギャンブルもやらず、男にのめり込むこともせず、粗末なアパートに住みながら、横領した金を乗馬用の“馬”に注ぎ込んだ。
なぜ彼女はそれほどまでに馬にのめり込んだのか。どんなコミュニケーションがそこにあったのか
。彼女がその馬に見ていたものは何なのか。
馬との「言葉のない世界」にのめり込んでいく女性を、「言葉を信じて」描いていった。これから私たちが、言葉やお金(どちらも動物には関係ないものだ)の手綱をどうやって引いて生きていけばいいのか。思わずスマホを放り出したくなるような、かなしくもおかしい物語が、一気に走りだした。

川村元気

試し読み

第一章 女と馬

 国道に、馬がいた。
 錆びついたブレーキを力任せに掛け、赤いスクーターを止める。熱されて溶け出しそうなアスファルトの上でタイヤが擦れ、ゴムの焦げた匂いが鼻を突く。
 色褪せたフラッグがたなびく中古車販売店と、潰れて看板が外されたパチンコ屋に挟まれた道の真ん中に、黒く艶やかに光る馬体が在った。
 先ほどまで道路を行き交っていた軽自動車や大型トラック、路線バスやオートバイが、立ち往生しクラクションを鳴らす。ふざけんな、どけコラ、次々と罵声が飛ぶが、それらはまさに馬耳に吹きつける風のようで、私の背丈の倍ほどもある馬は道の真ん中で悠然と首を動かしている。
 つんのめったヘルメットの鍔を上げると、馬と目が合った。漆黒の瞳が、じっと私を見つめている。どこか懐かしく、物悲しい黒。なぜだか、ため息が漏れた。額から汗がつう、と日に焼けた首筋を流れて着古したシャツの襟を濡らした。国道に立つ馬は、私から一切目をそらさない。正気かどうかを確認しようと、口角を上げた。大丈夫、ちゃんと笑えている。
 馬が二歩、三歩とこちらに歩み寄ってくる。拍動が速くなり、激しく鼓膜を打つ。硬い蹄ひづめがアスファルトを打ち付ける音がそれに重なった。枯草と乳が混じり合ったような獣の匂いが、私の鼻に届く。
 刹那、黒い馬が天を仰ぎ高らかに嗎いなないた。
 幻ではない、と告げるかのように。
 すると、揃いのナイロンジャケットを着た男たちがやってきて四人で馬を取り囲んだ。荒い鼻息を吐きながら、馬は前脚を高く上げる。右へ左へ。筋肉質で端正な四本脚が動く様は、洗練されたダンスのようだった。馬はしばらく暴れていたが、手綱がかけられると立ちどころにおとなしくなった。
 ナイロンジャケットの男たちは、動き出した車に頭を下げながら、少し先の信号に停められた馬運車へと馬を引いていく。先ほどまでの様子と打って変わって、まったく抵抗することなくタラップを登った馬が観音開きの扉から荷台に乗ると、馬運車は鈍重に走り出した。消費者金融の無人契約機と、水色の看板のコンビニエンスストアに囲まれた交差点をゆっくりと左に曲がっていく。
 遠ざかっていく車体に“麦倉乗馬倶楽部”と書かれているのが見えた。色褪せたその文字から私が目を離せないでいると、幌と荷台のすきまから、あの馬が顔を覗かせた。吸い込まれるような黒い瞳が、再び私に向く。
 見つけた。
 私が思うより少し先に、馬からそう語りかけられた気がした。

続きはメンバーシップにて

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