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四月になれば彼女は

四月になれば彼女は
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著者からのことば

川村元気のイラスト

ここは、僕の小説を手に取ってくれたあなたと直接繋がる場所です。感想、質問、さらに深く知りたい点など、どんなことでもお知らせいただければ幸いです。
あなたのお便りから、次の作品のインスピレーションを得ることができたら、と思っています。

川村元気

試し読み

九年ぶりです。
伝えたいことがあって、手紙を書いています。

手紙を書くなんて、簡単なことだと思っていました。
でも書きはじめてみると、驚くほど進まない。よく考えてみたら、ペンを手にちゃんとした手紙を書くなんて、十数年ぶりかもしれません。誰かのことを真剣に考えて、その人のためになにかを書く。それはとても難しく、恥ずかしいものですね。

百年後、紙に便りが書かれることはなくなっているのでしょう。でもそれが綴られるのはきっと真夜中で、まわりくどい言葉ばかりが続いてなにを伝えたいのかわからなくて、何度も書き直したはずなのに句読点が変な場所に打たれたりしていて、とにかく不恰好で、けれど切実であるのは変わらないような気がします。

いまわたしは、ボリビアのウユニにいます。
真っ白な塩の湖のほとりにある街。標高は三七〇〇メートル。空気はうすいけれども澄んでいて、水色の空にはぷっくりと膨らんだ雲が浮かんでいます。ここの塩湖は雨が降ると、水が浅く溜まり鏡のようになります。その鏡は天空を映し、世界すべてが空になるのです。 湖に囲まれた塩のホテルで、岩みたいに硬くなったパンとパセリが入った塩辛いスープを食べ終わり、この手紙を書いています。ここでは壁も塩、廊下も塩、ソファもベッドも、テーブルも椅子も花瓶ですら塩。二日もいれば、誰でも漬物みたいな気分になってくるでしょう。この塩まみれのホテルで、わたしは彼に出会いました。

彼は薄茶色のそばかすが目立つ白い肌と、琥珀色の瞳を持つアルゼンチン人です。塩のホテルに滞在してもう半年。ずっと水彩画を描いている、と言いました。彼の絵は、どれも色素がうすく、はかなく見えました。乳白色のフィルターがかけられたような美しい絵でした。わたしはそれらの絵が好きだと彼に伝え、お返しに、わたしが撮った写真を見せました。あなたも知っているように、わたしの写真も、どこかうすい世界のものです。その写真を彼はとても気に入ってくれました。自分の見ている景色と似ている、と。

有名なサッカー選手と同じ名前をもつ彼は、スペイン語と片言の英語で、好きな食べ物や小説、映画や音楽について、わたしに語りました。白身魚とワインが好きで、古い探偵小説とアメリカンニューシネマを愛し、寝る前にはラヴェルを聴く。好きな色は、白と藍色。天気雨を見ると胸が躍る。
それらはときにわたしが好きなものと同じであり、まったく違うものでもありました。けれども彼は、この世界のひとつでも多くのものが、わたしと彼をつないでいることを確かめるかのように、愛するものについて語り続けました。

出逢ってから三日後、彼はわたしを湖に連れ出しました。
新月の夜。満天の星空が湖に映り、世界がまるまる一周、すべて星に覆われていました。きみを大切にする、と彼は言いました。少し時間が欲しいとわたしは答え、明け方まで星に囲まれた世界で過ごしました。

それから二日間。天空の鏡に映る自分の姿を見つめながら、ずっと考えています。
わたしは彼に恋をしているのか。彼のことを愛せるのか。

子供の頃、夏の夕方。ベランダに座り、どしゃぶりの雨を眺めながら、わたしは雨が止む数分前には、それを予感していました。ああ、もうすぐ雨が止む。太陽がやってくる。そう思うといつも雨は止み、黄金色の光が空から差し込んできた。はっきりと、それを感じることができたのです。
わたしにとって、あなたとの恋のはじまりはそういうものでした。
あのときのわたしには、自分よりも大切な人がいた。あなたと一緒にいるだけで、きっとすべてがうまくいくと信じることができた。

そしてわたしのなかではあの四月が、いまでもぼんやりとした輪郭を保ちながらずっと続いているような気がしています。ぼんやりと、けれどいつまでも。

また手紙を書きます。

伊予田春

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